犬村小六『とある飛空士への追憶』(小学館、2008)
読みました。
以下ネタばれ感想注意です。
表紙に魅かれてジャケ買いしました。
そしてその私の感性は正しかった。
表紙に始まり表紙に終わります、コレ。
胸にこみ上げてくる何かかがあります。
昨日のsolaに続いて
今日も「空」関係のものを。
実はかなり前に買ってありまして
時間がなくて積んでいたものを
今日見てわけです。
いや、見る予定ではなかったのですが…
今日休日だってことに朝気がつきましてw
急に暇→あ、そういえば…という感じです。
ラストの結末、私好きですね。
現実的というと陳腐なんですが。
陳腐じゃないラストなんです。
陳腐な感想しか述べられない自分が陳腐ですorz
現実には現実の壁があることを実に現実的に描かれております。
フィクションなのにチャンチャラ可笑しいぜ!と思う人は思うのでしょうが
私は逆です。そういうとこ好きです。
イメージ的には「秒速5センチメートル」に近い。
「目の前にそびえる壁」
最後は読者にゆだねるといったことは
多くの作品で見られることですが
「ふたりの物語に最良の結末を与えてくださるよう」
と本文で言っているのは面白かったです。
本当に色々な考察ができる。というかできすぎるw
ここも賛否両論でしょうが何度もいうように
私、そういうの好き。
あと読んでて度々感じたことは
読者の感想も十人十色になるだろうなぁ、と。
読む人によって印象に残る所が違うんじゃないかと。
てなわけで、私が好きな所を少し紹介。
一つ目は最後のオチのある部分です。
この作品を書いた人が「ノンフィクション作家」であったこと。
真実(真実なんてものは無数にあるわけですが…これは省略)を
明らかにするのは歴史家の仕事でもあるはずです。
ここを敢て歴史家ではなくノンフィクション作家とした所に
私はすごい感銘を受けました。もう衝撃。インパクト。
作者もそのことをかなり気にかけていたいたと思います。
例えば、「客観性の高い文章で綴った」という部分。
でも客観性云々を語るなら歴史家とした方が手っ取りいいのでないか?
なぜ歴史家ではなくノンフィクション作家なのか?
この答えは、末尾の「読者に結末をゆだねる終わり方」にあると思います。
なぜなら読者に結末をゆだねる締めくくりは
歴史家ではできません。なぜならばそれは歴史ではなくなるから。
もしそんな締めくくりで論文出したら0点ですよねw
しかしノンフィクション作家だからこそ、これができる。
歴史家だったら何かしらの結論は出してしまわざるを得ない。
結局は謎、という結論かもしれません。
しかしそれじゃあ、あまりにも寂しい。
嘘であってもいいじゃない。真実ばかりが正しいとは限りませんしね。
だからこそ、この本の作者が
ノンフィクション作家であることに意味があると思います。
だからこそこの本は歴史書ではなく
「ひと夏の恋と空戦の“物語”」
なわけなんだな、と一人納得しておりました。
事実よりも伝えるべき何かがこの物語にはある、と
この「とある」ノンフィクション作家は思ったのでしょうねw
こう考えると本当に秀逸なラストなんだなぁと思います。
二つ目は次の文章。
『レヴァーム人がそうであるように、天ツ人にもさまざまの人間がおります。
気高いものや卑しいもの、善きもの、悪しきもの、善悪の入り交じったもの。
彼らをひとくくりに卑しいと決めつけ放逐するのが
文化的な人間の態度といえるのでしょうか』(31頁)
ここでナウシカ原作が頭によぎる私はナウシカ厨ですねw
実に当たり前のことですね。
はい。
特に何というコメントもしません。
ネットは恐いですからなるべく自分の意見は
ハリの向こうに隠しておくのがベストですww
「ナウシカのような女性」といえば多くの人が
その女性像を頭に描くことができると思いますので
表現の下手糞な私が次善の策として用いますが
ファナはそういう女性のイメージです、私。
ナウシカよりもっと取っ付き易い、と言ったら両者に失礼かw
何にせよ、このような女性に弱い所を見せられると
すぐこう参ってしまうのは男性の特性だと思いますw
すぐに何かと比較したがるのは幼稚な証拠ですがご容赦下さい。。
そういうことして楽しむのが趣味みたいなものです。(悪趣味w)






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